台本制作
演出指導
出張公演
あんがいおまる一座

綾羽先生へのメッセージ

「ひと言」   青木匡光
一生の終わりに残るものは、人に与えたものしかないという。
綾羽さんは、実に多くのものをわたしたちに与えてくれた。
親切な心づかい、やさしい笑顔、温かい言葉、そして心に明かりを灯す数々のすばらしい作品だ。綾羽さんから与えられた宝物は不滅である。
見事な資質と力量を持つ綾羽さんが、こんなに早く姿を消してしまったことは、本当に惜しい。
心からのお悔やみを申しあげて
                合掌


有光英子
 大好きだった綾羽先生に、大好きな會津一八のうた、先生への「セレナーデ」として捧
 げます。
  あをによし ならやま こえて さかるとも
  ゆめにし みえこ わかくさのやま
  ならやまを さかりし ひより あさにけに
  みてら みほとけ おもかげにたつ   南京新唱


穏やかでロマンチストの綾羽先生へ・・・   安里佳穂
 綾羽先生・・・
 先生を思うと、優しい声と笑顔ばかりが浮かびます。
 寛太郎との結婚をとても喜んで、石炭倉庫のパーティーでは、私の父親役をして
 下さったことを懐かしく思い出しています。
 必ずまたお会い出来ると信じ込み、不義理をしていた娘をお許し下さい。
 ですが、その不義理が幸いして、またお会い出来る気がしてなりません。
 なので勝手にこれからも・・・ 
 今まで通りに先生の優しい笑顔を思い出していたいと思います。
 ゆっくりお休み下さい。


故綾羽一紀先生に  石田順一
 二〇一一年五月二十三日。日本の夜空に流れ星が一つ弧を画いて消えた。
 戦後間もなく、ベストセラーになった尾崎秀実の『愛情は降る星の如く』を改めて想起させてくれた。 歴史の砂に埋もれてゆく人を、時代の波にのみこまれてゆく出来事を、先生はその力強く優しいま なざしで再生させ、永遠の感動とした。惜しい、さびしい、かなしい。しかし、多くの人々は、今後共、 且つてピタゴラスや演劇人生達を、コウコツとさせた星の宇宙を眺める度に、先生の演出ステージ を忘れることはあるまい。
 心から冥福を祈りたい。幕は下りたが、全てはこれから始まる。




井藤徳子
 綾羽先生の訃報を知り、おどろき、大変ショックを受けました。 
 病床の生活と聞き、必ず復帰される事と信じておりましただけに、残念でなりません。
 初めてお会いしてから変わらない優しい心遣いを頂き、また、美味しいコーヒーの味は
 忘れられません。


思いをこめて   浦博之
 ありがとうございました。
 こころからご冥福をお祈りします。 
              合掌


綾羽一紀氏へ感謝の辞   大川真一郎
 石炭倉庫では何度かピアノ伴奏付きで、クラリネットを演奏させて頂きました。演劇の内容に添った私の選曲は全て良しとされ、困っている時は、さっとヒントを与えて頂きました。それが又、的確なのです。年齢は私より若いが、実に温厚で慈父のような偉大な方でした。あれだけの脚本を書くだけでも大変な能力なのに、音楽に対する造詣が、それよりも深い方でした。他にはおられません。もっともっと生きて頂きたい方でした。しかし、作品は生き続けます。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。


綾羽一紀さんを偲んで   大島昇
 綾羽さんとの出会いは、おまるさんを頼って石炭倉庫に見学に行った時。もう一五年以上も前になる。
 初めてで席に着いてすぐに台本読みをすることになり、緊張しながら読んだことを覚えている。そばでやわらかく見守ってくださる綾羽さんがいた。手にした台本は大阪希望館。ストーリーの虜になってしまい、出演もさせてもらうことに。驚きの展開が待っていた。
 ともに作り上げる舞台、生き物の舞台をやり終えた感動。その裏方で、音楽と照明の一人二役の活躍ぶり。上海1930の上演では俳優座にも行かせていただき、大切な記憶として残っている。舞台を終えた役者一人ひとりに、いつも「ごくろうさま」と温かい笑顔でやわらかい言葉をかけてくださっていた綾羽さん。稽古や打ち上げでは、いつもうまそうに酒を楽しみ、芝居仲間と語り合っていた綾羽さんがいた。稽古中も事務所でワープロにコツコツと原稿を書いていた綾羽さん。その姿が目に焼き付いている。
 私自身体調を崩したことがあり、しばらく石炭倉庫から離れていましたが、ほぼ一〇年後に大阪希望館の最終公演には出演させていただき、何物にも代えがたい体験をさせていただき感謝あるのみです。
 卒業生の山口君や野口さん、そして、一子さんとお母さんが舞台に立ち、貴重な思い出ができたのも、綾羽さん、おまるさんのおかげと心より感謝しています。
 きっと天国でも芝居の台本を書き続けておられる事でしょう。常に弱い立場から、時を超えて権力への問いかけをされてきた生き方。綾羽さんの遺志は、石炭倉庫でこれからも引き継がれていきます。
 これからも温かい笑顔で見守り続けてください。ご冥福をお祈りしています。




河野明夫
 私は関西日本サイ科学会会長の河野明夫です。サイ科学とは一言でいえば、不思議現象の研究会で、毎月一回研究集会を行っています。
 この研究会で綾羽さんに日航墜落事件について講演して頂きました。よく調べられたその内容は、この事件の裏にあるもろもろの疑問を明らかにするとともに、更なる解明を求めるもので、深く印象づけられました。
 綾羽さんと初めてお会いしたのは、手相の研究家高峯氏のお招きで日航ホテルでした。高峯さんには私どもの研究会で二回にわたり講演して頂きました。
 当日窓から美しい夕日が見えていたのを思い出します。その後の二次会で、以前から知り合っていたあんがいおまるさんと一緒になり、更に会話がはずみました。
 それらの会話の中で上に述べた講演を依頼することになったことに感謝しています。
 そのお話の中で私が趣味としている長唄のことになり、一度下座での出演をと言われましたが、自信のなさと忙しさの中で参加できなかったことを残念に思っています。


瞬間   河村立司
 綾羽さんと私の交流(?)はきわめて薄い。
 JDCの社員なのかどうかも知らぬままだった。喫茶店で二回、軽食はたった一回、出版関係で何回か・・・。しかも、すべて要々のみの瞬間だったと思う。
 だが、そのたびに「このひと、いつもナニカを背負ってはる」という印象を強く受けていた。現在、世間には『調子のいいひと』が年々増殖している。あっさりと『時流』に乗ってしまう。お粗末というか、危険千万だ。
 綾羽さんは、そんな『モノ』には犯されず、重荷を背負ったまま逝かれたと思う。 
 どうか、その世では、大好きな映画のシーンを思い出し、瞬間でもくつろいでください。


綾羽先生を偲んで   北添啓一
 初めてお会いしてから、もう七〜八年になるでしょうか?立っているだけでいいからと、誘われてついウッカリ。元から、人前に出て芝居をする事など全く考えた事も無かった私です。
 何だか、綾羽先生の物腰とあの笑顔に、私のかたくなな心の結び目が解かれたように・・・、気がつけば稽古場に通っていたのでした。
 最初は中途半端な気持で参加した私ですが、芝居というものの難しさ、自分の演技が周りの人達の足を引っ張る事になるかもしれない。その責任の重さに改めて気づき、後戻りできない所へ来てしまった子供のような気持になった時も、笑顔で見守っている綾羽先生がいました。
 その不思議な存在感に癒され、気を取り直して遂に本番を迎える事が出来たのです。
 お陰さまで、綾羽先生には本当に貴重な経験をさせて頂きました。芝居の制作過程、役者達が徐々に盛り上がる連帯感、楽屋裏の緊張した光景などが楽しく、その後は役者ではなく、殺陣の指導など、裏方の仕事を時折させて頂いています。
 芝居の最終日、打ち上げの飲み会では、酒好きの先生は何時も片隅にいながらも、周囲を気遣いながら、お酒を勧めてくださいました。その時も物静かに、しかし、いつもより少し嬉しそう笑顔。
 今でも、打ち上げの時には、片隅で皆を気遣いながら、ニコニコと何時もの笑顔で飲んでおられるような気がします。
 それは、亡くなっても尚、不思議な存在感が私の心の中に生きているからでしょうか。
 有難うございました。ご冥福をお祈り致します。


弔辞   北村一男
 亡き綾羽さんのご冥福をお祈りいたします。
 彼の訃報をいまだに信じることができません。何か神隠しにあったみたいな気がしています。
 ある年に年賀状を頂きました。それはそれは美しい星空を描いた自筆の賀状でした。その年に上演する出し物に対する情熱がつづられていました。
ある日、なぞの浮遊物体UFOを見たよという話を聞かせて頂き、また新聞の切抜きを片手に火星の表面の在りようを解説、土星のリングの美しさ、ブラックホールの神秘性など、彼が宇宙からやってきたのではないかと思うほど、楽しく話をして頂きました。
宇宙のエネルギーと石炭倉庫の発展を感じるような賀状を手元で眺めながら、大空に旅立たれた彼を思い浮かべています。夜空を見上げた時に、星と星との間を忙しく新作の台本を抱えて行き交う彼の姿が見えるように思います。なんというタイトルの作品ですか、台本が出来上がったら送ってくださいね。
 綾羽さんに、いろいろとお世話になりました、有難う。いつも楽しくお付き合いをして頂き有難う。心から綾羽さんとの一期一会に感謝しています。さようなら。




旭堂南陵
 いつも楽しそうにお酒を飲んでおられた綾羽一紀さん。誰からも好かれていた綾羽一紀さん。芝居と音楽をこの上なく愛した綾羽一紀さん。もう二度と会えないと思うとさみしい限りです。
 ご冥福をお祈りいたします。

綾羽先生を偲んで   くめくめこ
 くめくめこの芸名は、綾羽先生が私の中に残して下さった宝物です。舞台「山姥」で茶屋の主人を演じた時の印象だったのでしょうか。味のある憎めない名前です。
 今回の追悼公演「降る星のごとく」は、先生の作品の中で、私が一番好きな作品です。ある時、それを先生に伝えたら、「そうか〜、いい作品だろう」と満足そうに嬉しい顔をなさっていました。今でも思い出します。
 先生の作品は、常に社会の有り方と戦い、人生への生き方を鋭い視線で、時にはやさしくドラマチックメッセージとして書いておられました。「上海1930」「千利休」「大阪希望館」「山姥」「過ぎ去りし秋の日に」等など。
そして、先生を語るには、映画をなくしては語れないでしょう。私も朝日カルチャー「映画一〇〇年の軌跡」の生徒でした。私が好きでもう一度観たいと思っていました、マーロン・ブランド主演の初期の作品「波止場」を先生にお願いしたら、「来月の教材で映像するよ」と仰って下さった時の嬉しさと言ったら・・・。そして、ジュリエッタ・マミーナ主演の「道」で、ニノ・ロータのあの有名な哀愁の曲は感慨深いものでした。映画を観終わって後、感無量の私に「くめさん!ジェルソミーナの役似合うよ」って、やさしい言葉をかけてと下さいました。カルチャーの生徒さんはみんな、先生が好きでした。
 私たちが数々の名作を観て学んだ事、それは先生が心から伝えたかったメッセージなのかもしれません。
 皆様と一緒になって、そして、私の小さな力も入れて頂いて、一座のモットーであります良質の舞台を、大好きな宇宙の彼方で私たちを見守って下さっている先生の元に届けられることを願っています。


綾羽一紀先生へ   康光岐
 自分の書いた脚本を多くの人々の手で、形にしてもらう悦び・・・。そんな宝物を、いつも胸に持っていらっしゃる。それが、綾羽先生の醸し出す雰囲気で、そんな綾羽先生が、私は大好きでした!
 綾羽先生の脚本は、いつも子どものような眼差しで向けられた、なぜ?と好奇心がメッセージに溢れている作品ばかり。私も「大阪希望館」の脚本を書かせて頂き、その中で、どうしても館長に言わせたかったセリフ、メッセージがありました。
 「ワシはただ、好き(素氣)なことをやっただけのことや!」
 心から・・・、心からこう生きることが大切なんだ!そう思うのです。この脚本を書かせて頂けたのも、綾羽先生にたくさんのご指導を頂けたからこそ、完成する事が出来ました。
 私の好き(素直な気持)を、めいっぱい輝かせてやろうと、あの時、惜しみない言葉を濯いで下さった綾羽先生。お陰様で、今でも書きたいと奮いたたせる原動力の言葉が、沸々と湧いて参ります。
 本当に、いっぱいいっぱいありがとうございました!  
 
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